屋代氏は、葛尾城(坂城町)を本拠とする信濃の戦国武将・村上氏の一族でした。しかし1553年、屋代政国は信濃攻略を進める武田信玄に寝返ります。村上義清は南北から挟撃される形となり、葛尾城を捨て越後に敗走します。上杉謙信は村上氏の求めに応じて信濃に兵を送り、これが10年間、5回に及ぶ川中島の合戦の始まりとなりました。
第一次合戦で、屋代氏は居城である屋代城を失い、武田から荒砥城(千曲市・上山田)を与えられます。
1582年武田氏が滅亡すると上杉氏の家臣となり、海津城(松代・長野市)の副将になりました。ところが、密かに徳川家康と連絡を取り合い、海津城から脱出して荒砥城に立てこもります。上杉軍に攻められ荒砥城が落城すると、今度は虚空蔵山城(上田市・坂城町)を占拠し、徳川方の前線拠点を確保しました。上杉・村上連合軍を18回に及ぶ籠城戦の末に撃退し、さらに真田昌幸らの攻撃に耐えて虚空蔵山城を守り抜きました。家康は”比類無き働き”と感賞し、書状を書き残しています。その後も屋代氏は代々徳川家の旗本として明治維新を迎えます。
1982年屋代氏の子孫が静岡県にいることがわかり、保管されていた武田信玄、上杉謙信、徳川家康らの書状が発見されました。後に千曲市へ寄贈され、信濃の戦国史を塗り替える一級の資料となりました。
(監修・千曲市文化財センター)
